今週はこんな本を読んだ №368 (27.5.24) 「幕末維新のこと」 

今週はこんな本を読んだ №368 (27.5.24)

「幕末維新のこと」 関川夏央編 ちくま文庫 15年3月初版 907円 

司馬遼太郎が残した幕末・明治に関するエッセイや対談、講演より精選したアンソロジーの[幕末編]で、司馬遼太郎幕末明治論コレクションと副題され、「明治国家のこと」と二冊同時に発売された。
「竜馬、松陰、新選組など司馬作品を彩る人物たちはもちろん、史料の片すみにひっそりと登場する<無名の人>にまで注がれる眼差しと、世界史上稀有な革命を実現させた江戸日本の風土を読み解く、鋭い批評眼が交差する至高の<歴史語り>」が堪能できる19編からなった一冊である。

私はそもそも司馬遼太郎の小説を一作も読んだことがなく、エッセイ集や対談集や講演集のようなものばかりを読んできた。だから「小説家司馬遼太郎について何を知っているのか」と問われれば、ほとんどまったく何も知らないに等しいのだが、作家司馬遼太郎については結構いろいろなことを知っているのだ。
「アンソロジー」というものは、編者の思い入れのようなものが全てで、何を選んだのか、ということに尽きると思う。編者の関川夏央は「大阪的作家の「計量」と「俯瞰」の文学」というタイトルで「解説」を書いているが、「計量」と「俯瞰」という語の意味するところは掴みようがなかったが、アタマに「大阪的作家」としたことで納得するものがあった。「彼は、大阪の土地に根づいた商人的リアリズムこそ自分の文学の神髄であると承知していた。東京に出て「文壇」の渦に巻き込まれることを嫌った。文学は司馬遼太郎にとって「芸術」でも「革命」でもなかった。むしろ実業であった」、というところが司馬遼太郎の本質ではないかと思う。
坂本竜馬は政治家ではなかった。革命家でさえなかった。その行動規範を合理主義というか商人的なリアリズムと見れば、京大阪の風土が持つリアリズムという感覚を通して、司馬には坂本竜馬のことが自分の事のように見えていたのかもしれない、などと思ったりする。
関川は「あとがき」で、概略こんなことを言いたかったのでは、と考えた。

編者の関川夏央について書かなければならない。
関川夏央の「<北朝鮮>とは何だったのか 退屈な迷宮【増補版】(KKベストセラーズ)」は№186で紹介している。この本は北朝鮮建国以来はじめて普通の日本人の書いた「普通の旅行報告書」だ。関川は三度にわたり北朝鮮に渡航し、この三回で見たこと聞いたこと感じたことを一般市民の感覚で、一度目の印象を「奇妙」、二度目を「いたましさ」、そして三度目を「退屈」とまとめていた。
もう一冊、「海峡を越えたホームラン(双葉文庫)」という本は、在日韓国人のプロ野球選手や、韓国から日本のプロ野球に「外国人選手」としてやってきた選手の、野球文化の摩擦、生活文化の摩擦、そしてお決まりの「差別」、今度は逆に韓国プロ野球の立ち上げ参加した在日の選手が、韓国プロ野球界から受けた野球文化の摩擦、韓国社会から受けた生活文化の摩擦、そしてお決まりの「差別」を丹念にルポした一冊だ。
1990年代の北朝鮮の市民の生活を語る時、そして日本のプロ野球界で活躍した韓国人選手、さらに韓国プロ野球の黎明を語る時、絶対に外すことのできない著作である。
本当に良い仕事を残した、と私はこの二冊だけで関川夏央という作家を尊敬しているのだ。

「史料の片すみにひっそりと登場する<無名の人>にまで注がれる眼差し」として、「所郁太郎」のことを書いている。長州藩の井上聞多が襲われ瀕死の重傷を負って担ぎ込まれた。本人も苦しくて死を覚悟して介錯してくれというほどの重傷だったが、この時偶然に家に入ってきた所郁太郎が手術をすることになる。
所は、美濃の浪人で憂国の情をおさえかねて志士になり長州藩に身を寄せていた。焼酎で消毒し、近くにあった畳針を使って50針もの縫合手当をした。結局井上聞多は助かるが手術した所は翌年チフスにかかって死ぬ。山口県の明治初年の記録には「所某」とだけあった。名は無く「某」であった。
その後大阪の蘭学医緒方洪庵のことを調べている時に、適塾の塾生名簿に「濃州赤坂 所郁太郎」とあったのを発見した。この「所郁太郎」が明治の元勲井上馨の命を助けたのだ。「生涯わずか27歳」と書いてあったという。

「吉田松陰」というタイトルで、「革命というものは薩摩の冷徹な戦略主義だけでできるものではなく、土佐脱藩の士のようないわゆる草莽の力闘だけでできるものでもない。松陰の死後ある時期から長州はその温和な性格を一変させ藩ぐるみでやぶれかぶれといってもいいような暴走を始め、その暴走によって起きる巨大な風圧が物理的な衝撃を情勢に与え、さらに進行しめまぐるしく新段階をつくりつつ、ついには自爆寸前になって薩摩と土佐が事態収拾の手を伸ばし、いわゆる維新が成立した。この長州藩の暴走の点火者になったのが吉田松陰である」。そして「おどろいたことに、彼が点火に要した時間、松下村塾をひらいた期間はほんのわずかな期間、塾の体裁をなした期間二年半に満たない」と書いている。
吉田松陰のことを「ふれた者はその場から走り出したくなるような人物ではないかと思われる」と表している。
短い言葉で、端的で、的確で、思わずうなってしまった。

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