今週はこんな本を読んだ №670 「犯罪フルコース」
今週はこんな本を読んだ №670 (令和3年4月11日)
「犯罪フルコース」 ベストミステリー選集 日本推理作家協会編 光文社文庫 92年6月10刷 660円
光文社文庫のベストミステリー選集の第一巻から、90年代00年代の26冊を読み始めることにした。
この一冊は1987年(昭和62年)に光文社文庫「ベストミステリー選集」の第一巻として刊行されたものだ。記念すべき第一巻の冒頭の頁に「日本ベストミステリー選集に寄せて」という題で中島河太郎の序文があり、「日本推理作家協会では昭和44年以来、三年ごとに短編の佳作を選んで三巻にまとめ、カッパノベルス版として刊行し、すでに七回に及んでいる。今回、これらを逐次文庫版として刊行することにした」ということが書かれてあった。講談社文庫の「ミステリー傑作選」の第一巻「犯罪ロードマップ」は1974年3月に発刊されている。それから13年も遅れてカッパノベルス版を基にした光文社文庫のミステリーアンソロジーが刊行されたことになった。同じ「日本推理作家協会編」で講談社と光文社二社から同じような文庫版アンソロジーの刊行は、一年遅れ二年遅れなら先行した講談社に追従したという理解ができるが、13年も遅れてとなるとこの間に何か大きな動機になるようなものがあったに違いない。「序文」にそのことは書かれてなかった。
この一冊には「永臨侍郎橋(陳舜臣)」「わたくしは犯人・・(海渡英祐)」「醜聞(結城昌治)」「赤い蝶・青い猫(佐野洋)」「詩集を買う女(多岐川恭)」「酒場の扉(戸板康二)」「眠れる美女(永井路子)」「ロカビリアン殺人事件(大谷羊太郎)」「ガラスの結晶(渡辺淳一)」「蝶の牙(島田一男)」「双頭の蛇(黒岩重吾)」の11編が収められている。錚々たる名前が連なっている。皆一時代を築いた人たちばかりだ。
「赤い蝶・青い猫」はミステリー傑作選でもベストミステリー選集でも常連の佐野洋の一編だ。LSDが主題として取り上げられている。「これは幻覚剤でいわゆるヒッピーを中心とするアメリカの青年たちに広まり、世界各国でこれの使用が流行した」と説明され、「一昨年(1969年)警視庁がLSD一錠を入手、さらに70年に大量のLSDが東京で発見された」という書き込みもあった。これを手がかりにするとこの一編は昭和42年43年頃に書かれたものだと分かる。LSDの幻覚による事故死か、無理やりLSDを飲まされ胎児の奇型をおそれたあまりノイローゼになって発作的に自殺したのか、まるでLSDを恐怖の毒物のように扱っている。今から振り返ればLSDとサイケデリックは一瞬で終わってしまった。まるで花火のように一瞬光り輝きその次の瞬間には消えて無くなってしまった。
「ロカビリアン殺人事件」の大谷羊太郎も傑作選や選集でたびたび名前を見かける常連の一人だ。主人公は昔ロカビリーバンドでギターを弾いていて、今は音楽プロダクションの社長だ。銀座裏にあるジャズ喫茶で演奏していたときに出会った折原みどりを歌謡界にデビューさせ、今ではAクラスにランキングされるほどの人気歌手に成長していた。みどりはプロダクションの大事な宝であり、主人公はみどりのマネージャーであり忠実なるガードマンを自任していた。昔のバンドで歌手をしていた青木という男が場末のキャバレーで歌を歌っているということを知って会いに行くが、スナックのマダム(ママではなくマダムなのだ!)を殺して行方不明だという。スナックには「パンチのきいたゴーゴーリズムが店いっぱいに流れていた」という描写がある。「マダムは、私は折原みどりの重大な秘密を知っている、そんな会話をしていた。青木はいきりたってマダムに掴みかかっていた」というスナックの客の話だった。「私は青木が殺意を抱いたのも当然だと思った。マダムがみどりの非処女説を口にしたと聞いた時には、私だって殺意が身内を走ったのだ。みどりのあの清純美をたとえわずかでも汚す者は断じて許すわけにはゆかない」と主人公は思う。
「この事件はだれが犯人かという謎よりも、清純スター折原みどりが処女か非処女かという、私がかって夢想だにしなかった論点がすべての発端であった。マダムは非処女説を裏付ける確証を握っていたのではないだろうか。長い間青木が胸に抱き続けてきた理想像が崩れ去り、その幻滅感が自分の自殺を前提とした殺人に導いたのではないだろうか」。ここまで読んできて話はそっちの方向に行くのかと驚いていると、ラストになって主人公は「清純」なみどりと関係を持とうと企てるシーンにつながる。「私はみどりの顔を覗き込む。これは処女の顔なのだろうか、それとも非処女の。そして二人はソファのうえに倒れこむ。私の手が上肢の内側に密着したとき、みどりはそれまでと打って変わって荒々しい動作で抗ってきた。もうこれ以上、男の愛撫を許しては軀の秘密があばかれてしまう危険があるのだ。必死になって私の侵入を排除するのは当然のことだろう」。そして、「私は全身の重みでみどりの自由を抑え込むと、すでにだれかの手で拓かれているかもしれない、いや、私によって今、拓かれるかもしれない強烈な謎を秘めた部分に向かって震えを帯びた熱い触手を近づけていった」という描写で物語が終わる。自分にその気があるのなら、みどりが処女であるかないかは問題ではないだろう。処女だと信ずるならそれを侵すべき行為はとるべきではないし、自分の意志でその扉を開ける行為に及ぶなど以ての外だ。処女であったとしても、すでに処女でなくなっていたとしても、それを確かめてそれからどうするつもりだ、と率直な感想を持った。「処女であるか、ないか」それだけが問題視された時代があったのだ、と話をまとめるのは簡単だが、同じ時代を生きてきた私にはとても同感できることではない。“そんなバカな”と思う。大事だと思う者にとっては無上の価値のあるものだが、それに意味など感じていない者には何でもないこと、「価値観」という言葉の持つ意味は今も昔も何も変わっていない。
「蝶の牙」。島田一男といえば昔のテレビドラマの原作者として名前だけは知っている人だが、小説は初めて読んだ気がしている。「女は、素っ裸のまま布団の上を転げ回った。そのあげく、自分で自分の足首をかかえ両脚を高く上げて体を大きく開く。それが最後の結合の姿勢、右貴子が最も好んだ体位だった。わたしは、三年ぶりの体に異常なまでに猛り立って、天を衝く白い門柱の間に荒々しく突入した」。もう百冊を超えるほどミステリーアンソロジーを読んできたが、このような描写を読んだのは初めてのことだ。「結合」「体位」「猛り立って」「白い門柱の間」、読みながら久しぶりに硬くなってくるものがあった。
「犯罪フルコース」 ベストミステリー選集 日本推理作家協会編 光文社文庫 92年6月10刷 660円
光文社文庫のベストミステリー選集の第一巻から、90年代00年代の26冊を読み始めることにした。
この一冊は1987年(昭和62年)に光文社文庫「ベストミステリー選集」の第一巻として刊行されたものだ。記念すべき第一巻の冒頭の頁に「日本ベストミステリー選集に寄せて」という題で中島河太郎の序文があり、「日本推理作家協会では昭和44年以来、三年ごとに短編の佳作を選んで三巻にまとめ、カッパノベルス版として刊行し、すでに七回に及んでいる。今回、これらを逐次文庫版として刊行することにした」ということが書かれてあった。講談社文庫の「ミステリー傑作選」の第一巻「犯罪ロードマップ」は1974年3月に発刊されている。それから13年も遅れてカッパノベルス版を基にした光文社文庫のミステリーアンソロジーが刊行されたことになった。同じ「日本推理作家協会編」で講談社と光文社二社から同じような文庫版アンソロジーの刊行は、一年遅れ二年遅れなら先行した講談社に追従したという理解ができるが、13年も遅れてとなるとこの間に何か大きな動機になるようなものがあったに違いない。「序文」にそのことは書かれてなかった。
この一冊には「永臨侍郎橋(陳舜臣)」「わたくしは犯人・・(海渡英祐)」「醜聞(結城昌治)」「赤い蝶・青い猫(佐野洋)」「詩集を買う女(多岐川恭)」「酒場の扉(戸板康二)」「眠れる美女(永井路子)」「ロカビリアン殺人事件(大谷羊太郎)」「ガラスの結晶(渡辺淳一)」「蝶の牙(島田一男)」「双頭の蛇(黒岩重吾)」の11編が収められている。錚々たる名前が連なっている。皆一時代を築いた人たちばかりだ。
「赤い蝶・青い猫」はミステリー傑作選でもベストミステリー選集でも常連の佐野洋の一編だ。LSDが主題として取り上げられている。「これは幻覚剤でいわゆるヒッピーを中心とするアメリカの青年たちに広まり、世界各国でこれの使用が流行した」と説明され、「一昨年(1969年)警視庁がLSD一錠を入手、さらに70年に大量のLSDが東京で発見された」という書き込みもあった。これを手がかりにするとこの一編は昭和42年43年頃に書かれたものだと分かる。LSDの幻覚による事故死か、無理やりLSDを飲まされ胎児の奇型をおそれたあまりノイローゼになって発作的に自殺したのか、まるでLSDを恐怖の毒物のように扱っている。今から振り返ればLSDとサイケデリックは一瞬で終わってしまった。まるで花火のように一瞬光り輝きその次の瞬間には消えて無くなってしまった。
「ロカビリアン殺人事件」の大谷羊太郎も傑作選や選集でたびたび名前を見かける常連の一人だ。主人公は昔ロカビリーバンドでギターを弾いていて、今は音楽プロダクションの社長だ。銀座裏にあるジャズ喫茶で演奏していたときに出会った折原みどりを歌謡界にデビューさせ、今ではAクラスにランキングされるほどの人気歌手に成長していた。みどりはプロダクションの大事な宝であり、主人公はみどりのマネージャーであり忠実なるガードマンを自任していた。昔のバンドで歌手をしていた青木という男が場末のキャバレーで歌を歌っているということを知って会いに行くが、スナックのマダム(ママではなくマダムなのだ!)を殺して行方不明だという。スナックには「パンチのきいたゴーゴーリズムが店いっぱいに流れていた」という描写がある。「マダムは、私は折原みどりの重大な秘密を知っている、そんな会話をしていた。青木はいきりたってマダムに掴みかかっていた」というスナックの客の話だった。「私は青木が殺意を抱いたのも当然だと思った。マダムがみどりの非処女説を口にしたと聞いた時には、私だって殺意が身内を走ったのだ。みどりのあの清純美をたとえわずかでも汚す者は断じて許すわけにはゆかない」と主人公は思う。
「この事件はだれが犯人かという謎よりも、清純スター折原みどりが処女か非処女かという、私がかって夢想だにしなかった論点がすべての発端であった。マダムは非処女説を裏付ける確証を握っていたのではないだろうか。長い間青木が胸に抱き続けてきた理想像が崩れ去り、その幻滅感が自分の自殺を前提とした殺人に導いたのではないだろうか」。ここまで読んできて話はそっちの方向に行くのかと驚いていると、ラストになって主人公は「清純」なみどりと関係を持とうと企てるシーンにつながる。「私はみどりの顔を覗き込む。これは処女の顔なのだろうか、それとも非処女の。そして二人はソファのうえに倒れこむ。私の手が上肢の内側に密着したとき、みどりはそれまでと打って変わって荒々しい動作で抗ってきた。もうこれ以上、男の愛撫を許しては軀の秘密があばかれてしまう危険があるのだ。必死になって私の侵入を排除するのは当然のことだろう」。そして、「私は全身の重みでみどりの自由を抑え込むと、すでにだれかの手で拓かれているかもしれない、いや、私によって今、拓かれるかもしれない強烈な謎を秘めた部分に向かって震えを帯びた熱い触手を近づけていった」という描写で物語が終わる。自分にその気があるのなら、みどりが処女であるかないかは問題ではないだろう。処女だと信ずるならそれを侵すべき行為はとるべきではないし、自分の意志でその扉を開ける行為に及ぶなど以ての外だ。処女であったとしても、すでに処女でなくなっていたとしても、それを確かめてそれからどうするつもりだ、と率直な感想を持った。「処女であるか、ないか」それだけが問題視された時代があったのだ、と話をまとめるのは簡単だが、同じ時代を生きてきた私にはとても同感できることではない。“そんなバカな”と思う。大事だと思う者にとっては無上の価値のあるものだが、それに意味など感じていない者には何でもないこと、「価値観」という言葉の持つ意味は今も昔も何も変わっていない。
「蝶の牙」。島田一男といえば昔のテレビドラマの原作者として名前だけは知っている人だが、小説は初めて読んだ気がしている。「女は、素っ裸のまま布団の上を転げ回った。そのあげく、自分で自分の足首をかかえ両脚を高く上げて体を大きく開く。それが最後の結合の姿勢、右貴子が最も好んだ体位だった。わたしは、三年ぶりの体に異常なまでに猛り立って、天を衝く白い門柱の間に荒々しく突入した」。もう百冊を超えるほどミステリーアンソロジーを読んできたが、このような描写を読んだのは初めてのことだ。「結合」「体位」「猛り立って」「白い門柱の間」、読みながら久しぶりに硬くなってくるものがあった。
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