今週はこんな本を読んだ №485 (29.9.17) 「言葉につける薬」
今週はこんな本を読んだ №485 (29.9.17)
「言葉につける薬」 呉智英 双葉文庫 98年1月初版 479円
やっと朝夕は涼しげな風が吹くようになってきた。喫茶店のいつもの自分の席に座って、煙草に火をつけておもむろに本の頁を開いた。
「日本語が乱れている。単語の混乱ではない。「名」の混乱。パラダイムの混乱なのである」ということについて書かれた一冊だ。
先生は「論語・子路篇」に拠って「名」というものを説明する。
戦国期に衛の国は政争が続き社会秩序も大きく乱れていた。孔子の高弟の子路が、先生が衛に招かれ改革を委ねられたらまず何をなさいますか、と尋ねた。これに孔子は「必ずや名を正さんか」と答えた。
孔子は、「名」が正しくなければ言論も順当ではなく、言論が順当でなければ諸事はうまくいかず、諸事がうまくいかなければ文化も豊かにならず、文化が豊かでなければ法律も適切ではなく、法律が適切でなければ民衆の日常生活にも支障が生じるのだ、という「論語」の一節だ。
先生はこの孔子の言葉「必ずや名を正さんか」を、「名」というのは言葉である、この言葉は単語ではなく論理としての言葉のことである。「名」はひとつひとつの事物や現象を分類して名づけ、正しく秩序づけて認識する論理・規範の体系に組み立てる論理のことであり、現代思想に換言すればパラダイム(思想の枠)という意味だ、と指摘する。
「日本語が乱れている。これは本当だろうか」と、問題点を提示し、「「名」の混乱という意味で、根源的な言葉の乱れなのである。私が言う日本語の乱れとは、自主規制回路が働いて、中学生並みの誤用誤文がまかり通る一方で、自動検閲装置が人間の思考力を奪っていく、ということだ」と指摘し、「私が日本語の乱れを指摘するのは孔子と同じ気持ちからである。私は「単語」を正したいのではない。「言葉(ロゴス)」を正したいのだ」と、この本の主題が語られる。
「意気込みの割に本書はただの「言葉雑学漫歩」になってしまっているかもしれない。しかし、それでもいい。言葉と思想について、言葉と文化について、私かちらりとかいま見た面白さがいくらかでも読者に伝われば、それで十分役目は果たせたことになるはずである」という一見“優しげな”お言葉が前振りにある。辞書で確認することも、まして原典にあたることもなく書き散らしているあれやこれやの誤用や誤記について、まるで「箸の上げ下げ」にまで目を光らせる小姑のように、意地悪く嘲笑するかのように、50項目の言葉について、「言葉=ロゴス」を正し、「言葉につける薬」を調合していく。
この一冊には根源的な「知」の面白さが詰まっている。正札付の知的エッセイの一冊だ。
「仕事を愛する人にヒロポン」の項には、現在使用だけではなく所持そのものが覚醒剤取締法に触れる覚醒剤は、1951年より前は所持も使用も自由であり、製薬会社は競って製造販売していた。「ヒロポン」は大日本製薬の覚醒剤の商品名なのだ。戦中から戦後の一時期ヒロポンと同一もしくは類似成分の「ホスピタン」「プロパミン」「ゼドリン」などがある。坂口安吾が愛用して中毒になったのはゼドリンである、とあった。
「「阿片」と「オピウム」」の項に、支那語ではアピェン、英語ではオピウムといい両者は極めて似ている。マレー語の「あぴうん」が語源だからである。欧州人は「あぴうん」と聞いて英語に、支那人は「あぴうん」を漢字に音写した。その漢字を日本人は日本化した漢字音で「あへん」と読んだ、とあった。
「菊の恨み」。漢字の読み方には音と訓がある。音は漢字が日本に伝わってきた頃の支那の発音、訓はその漢字の意味する事物を表す日本語固有の言葉である。「山」は「さん」であり「やま」、「海」は「かい」であり「うみ」である。しかし、支那にだけあって日本になかったものは音だけで訓がない。
「菊」を「きく」と読むのは音読みであり、訓読みがない。「菊」にはこれに相当する日本語がなく、したがって訓読みがない、という意味においては古い外来語だということになる。意外なようだが「万葉集」には「菊」がでてこない。文献に初めて「菊」が出てくるのは平安初期の和歌で、そこから考えても「菊」が支那から渡来したのは奈良時代の末ごろだろうと考えられる。外来植物が皇室の紋章になったのはいつのことかよくわからないが、当時の人にとって、山陽相互銀行がトマト銀行になったような感じがしたのではないだろうか、というところを読んでドキドキするほど感動した。
天皇家の紋章でもある「菊」、日本の象徴でもある「菊」が、日本最古の歌集にも出ていなく、訓読み(日本固有の言葉)を持たない、ということをこの本で知ったことだ。
さらにいえば、「蝶」にも「訓」がない。
「幽霊か妖怪か」の項。マルクスとエンゲルスの「共産党宣言」の有名な冒頭の一節「ヨーロッパに幽霊が出る、共産主義という幽霊である(大内兵衛・向坂逸郎訳・岩波文庫)」という冒頭の一節の訳文を各出版社別に比較している。
「ヨーロッパをひとつの妖怪が行く・共産主義という妖怪が(相原成訳・新潮社)」、「一つの妖怪がヨーロッパをさまよっている。共産主義の妖怪が(村田陽一訳・大月書店)」、「一つの妖怪がヨーロッパを歩き回っている。共産主義という妖怪が(宮川実訳・平凡社)」。先生は「翻訳としては幽霊のほうが正しい」と結論している。
この本を読んだ後、何かもの凄い物知りになったような気がして、あちこちでよく使わせてもらったことを思い出しながら読んだ。今は人と会うことも無いので、ため込んだ「知識」を外に向かって見せることができないでいる。
「知識人」とは、いったいどのような人の、どのような状態を指す言葉なのだろうか、そんなことを想いながら煙草に火をつけた。
「言葉につける薬」 呉智英 双葉文庫 98年1月初版 479円
やっと朝夕は涼しげな風が吹くようになってきた。喫茶店のいつもの自分の席に座って、煙草に火をつけておもむろに本の頁を開いた。
「日本語が乱れている。単語の混乱ではない。「名」の混乱。パラダイムの混乱なのである」ということについて書かれた一冊だ。
先生は「論語・子路篇」に拠って「名」というものを説明する。
戦国期に衛の国は政争が続き社会秩序も大きく乱れていた。孔子の高弟の子路が、先生が衛に招かれ改革を委ねられたらまず何をなさいますか、と尋ねた。これに孔子は「必ずや名を正さんか」と答えた。
孔子は、「名」が正しくなければ言論も順当ではなく、言論が順当でなければ諸事はうまくいかず、諸事がうまくいかなければ文化も豊かにならず、文化が豊かでなければ法律も適切ではなく、法律が適切でなければ民衆の日常生活にも支障が生じるのだ、という「論語」の一節だ。
先生はこの孔子の言葉「必ずや名を正さんか」を、「名」というのは言葉である、この言葉は単語ではなく論理としての言葉のことである。「名」はひとつひとつの事物や現象を分類して名づけ、正しく秩序づけて認識する論理・規範の体系に組み立てる論理のことであり、現代思想に換言すればパラダイム(思想の枠)という意味だ、と指摘する。
「日本語が乱れている。これは本当だろうか」と、問題点を提示し、「「名」の混乱という意味で、根源的な言葉の乱れなのである。私が言う日本語の乱れとは、自主規制回路が働いて、中学生並みの誤用誤文がまかり通る一方で、自動検閲装置が人間の思考力を奪っていく、ということだ」と指摘し、「私が日本語の乱れを指摘するのは孔子と同じ気持ちからである。私は「単語」を正したいのではない。「言葉(ロゴス)」を正したいのだ」と、この本の主題が語られる。
「意気込みの割に本書はただの「言葉雑学漫歩」になってしまっているかもしれない。しかし、それでもいい。言葉と思想について、言葉と文化について、私かちらりとかいま見た面白さがいくらかでも読者に伝われば、それで十分役目は果たせたことになるはずである」という一見“優しげな”お言葉が前振りにある。辞書で確認することも、まして原典にあたることもなく書き散らしているあれやこれやの誤用や誤記について、まるで「箸の上げ下げ」にまで目を光らせる小姑のように、意地悪く嘲笑するかのように、50項目の言葉について、「言葉=ロゴス」を正し、「言葉につける薬」を調合していく。
この一冊には根源的な「知」の面白さが詰まっている。正札付の知的エッセイの一冊だ。
「仕事を愛する人にヒロポン」の項には、現在使用だけではなく所持そのものが覚醒剤取締法に触れる覚醒剤は、1951年より前は所持も使用も自由であり、製薬会社は競って製造販売していた。「ヒロポン」は大日本製薬の覚醒剤の商品名なのだ。戦中から戦後の一時期ヒロポンと同一もしくは類似成分の「ホスピタン」「プロパミン」「ゼドリン」などがある。坂口安吾が愛用して中毒になったのはゼドリンである、とあった。
「「阿片」と「オピウム」」の項に、支那語ではアピェン、英語ではオピウムといい両者は極めて似ている。マレー語の「あぴうん」が語源だからである。欧州人は「あぴうん」と聞いて英語に、支那人は「あぴうん」を漢字に音写した。その漢字を日本人は日本化した漢字音で「あへん」と読んだ、とあった。
「菊の恨み」。漢字の読み方には音と訓がある。音は漢字が日本に伝わってきた頃の支那の発音、訓はその漢字の意味する事物を表す日本語固有の言葉である。「山」は「さん」であり「やま」、「海」は「かい」であり「うみ」である。しかし、支那にだけあって日本になかったものは音だけで訓がない。
「菊」を「きく」と読むのは音読みであり、訓読みがない。「菊」にはこれに相当する日本語がなく、したがって訓読みがない、という意味においては古い外来語だということになる。意外なようだが「万葉集」には「菊」がでてこない。文献に初めて「菊」が出てくるのは平安初期の和歌で、そこから考えても「菊」が支那から渡来したのは奈良時代の末ごろだろうと考えられる。外来植物が皇室の紋章になったのはいつのことかよくわからないが、当時の人にとって、山陽相互銀行がトマト銀行になったような感じがしたのではないだろうか、というところを読んでドキドキするほど感動した。
天皇家の紋章でもある「菊」、日本の象徴でもある「菊」が、日本最古の歌集にも出ていなく、訓読み(日本固有の言葉)を持たない、ということをこの本で知ったことだ。
さらにいえば、「蝶」にも「訓」がない。
「幽霊か妖怪か」の項。マルクスとエンゲルスの「共産党宣言」の有名な冒頭の一節「ヨーロッパに幽霊が出る、共産主義という幽霊である(大内兵衛・向坂逸郎訳・岩波文庫)」という冒頭の一節の訳文を各出版社別に比較している。
「ヨーロッパをひとつの妖怪が行く・共産主義という妖怪が(相原成訳・新潮社)」、「一つの妖怪がヨーロッパをさまよっている。共産主義の妖怪が(村田陽一訳・大月書店)」、「一つの妖怪がヨーロッパを歩き回っている。共産主義という妖怪が(宮川実訳・平凡社)」。先生は「翻訳としては幽霊のほうが正しい」と結論している。
この本を読んだ後、何かもの凄い物知りになったような気がして、あちこちでよく使わせてもらったことを思い出しながら読んだ。今は人と会うことも無いので、ため込んだ「知識」を外に向かって見せることができないでいる。
「知識人」とは、いったいどのような人の、どのような状態を指す言葉なのだろうか、そんなことを想いながら煙草に火をつけた。
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