今週はこんな本を読んだ №464 (29.4.23) 「サルの正義」 

今週はこんな本を読んだ №464 (29.4.23)

「サルの正義」 呉智英 双葉文庫 520円 96年7月初版

「暴論に正論あり・・・馬と鹿の次は猿だ」、「浅知恵のサルどもに容赦はしない」と腰巻にあった。
「馬」を撃ち、「鹿」を撃ち、そしてこの一冊では「サル」を嗤うのだ。
「彼等がサルだと気づいたのはわりと最近である。それまでだって、どうも変だなと思っていた。しかし、まさかサルだとは考えもつかなかった。中には馬や鹿の皮をかぶっているやつもいるけれど、身は人間である。不覚にも、こう解釈してきた。だが、彼等はサルだったのである。サルの正義が世を被う今、正論はあたかも暴論に見える。暴論の中に正論を読み取れ」という一冊だ。

目次の次にある扉の一頁に「列子黄帝篇に朝三暮四の故事あり。今世を見るに、似非賢者跳梁し、愚者また時を得たるが如く跋扈す。理非を弁ぜず、朝三に怒り暮四を憎み、朝四に喜び暮三を願う。世の正義概ねこれなり。故に言う、猿の正義と」とあった。これは次の頁にある「「サルの正義」緒言」というところでより詳しく説明されている。サルの正義は俗耳に入りやすい。サルどもがサルの正義をふりかざせば、人はついこれに跳びつく。そして、その人もサルになってゆく。かくて、連鎖反応のようにサルの正義が跳梁跋扈する。
すなわち、「朝三暮四」こそが「サルの正義」であるというのだ。
「第一章 暴論に正論あり」に「サルの正義が世を被う今、正論はあたかも暴論のように見える。キリスト教教会勢力が世を支配する17世紀初めのイタリアで、ガリレオの唱えた正論はあたかも暴論のように受け取られた。だが、それでも地球は回っているのだ。サルが正しいか、人間が正しいか。人間の正義か、サルの正義か。暴論の中にある正論を読み取っていただきたい」とあった。
「ラディカルな正論」と「シニカルな暴論」の二章で、「根源的にある正論」と「皮相的な暴論」が展開されていく。分かりやすい二項対比になっている。

「ラディカルな正論」の中の「「支那」問題補論 誰が「支那」を圧殺したか」を紹介したい。
「支那は断乎として「支那」である。この正論がどのように理不尽に圧殺されてきたかを補っておきたい」という書き出しで始まる。
青木正児「中華名物考」は1959年(昭和34年)に刊行された。この中に「支那は支那人に自らによっても古くから使われてきた美称であり、蔑称などではない」とある。この文章の初出が昭和52年12月17日の朝日新聞である、このことを問題にする。呉先生の「支那は断乎として「支那」である」が週刊文春に掲載された時に、朝日新聞の広告にこの論題が使えなかった。「支那」の二文字があるだけで掲載を拒否されたが、しかし自らはそんなに遠くない過去に掲載していたではない、と指摘する。
外務省に申請を出して地下の記録室で閲覧した、1945年6月6日日付の次官通達と局長通達の二文書に言及する。
一通目は「支那の呼称を避けることに関する件(次官通達・昭和21年6月6日付)」文書で、発信者は外務次官、宛先は、各省次官、内閣書記官長、府県知事、終戦地方事務局、終戦次長、二通目は「中華民国の呼称に関する件(局長通達・昭和21年6月6日付)」文書で、発信者は外務省総務局長、宛先は各新聞社長、雑誌社長となっている。
二通目の「通達」のなかに「中華民国の国名として支那という文字を使うことは、過去においては普通に行われていたのであるが、支那という文字は中華民国として極度に嫌うものであり、同国代表者が公式非公式にこの文字の使用をやめてもらいたいとの要求があったので、今度は理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使わぬようにしたいと考え、念のため貴意を得る次第です」とあった。
「現在でも言論界に対し、政府や圧力団体からさまざまな要望やお願いがある。その中に「理屈抜きにして」の一語があったら、たちどころに怒りの声が上がり、どの理屈が正しいのか議論の場を提供するのが新聞であり雑誌である、との声明が出るだろう。自由で活発な言論とは、そのようにして保証されるからである」と書き、「馬鹿馬鹿しいことだが、当時はその馬鹿馬鹿しさを大新聞でも書くことができた。今はその馬鹿馬鹿しさの由縁を書くこともできなくなっている」と書いている。
この「支那呼称問題」については、いささか昭和史をみてきた私も始めて「文書」の形で知ったことだった。
半藤一利さんも保阪正康さんも書いてくれなかったことだ。

「絶対的正義ほど危険なものはない。一切の反論を封殺するからだ。民主主義と人権思想、このふたつは力点の置き方が、制度か目標かの違いだけで共にフランス革命に端を発する同一物である。このふたつは一切の反論を封殺する恐るべき絶対的正義なのだ。民主主義も人権思想も恣意的な正義に過ぎない。批判を許さない絶対的正義で、しかも恣意的正義、これより恐ろしい正義が他にあるだろうか」と、「サルの正義」を指弾する。

大学時代に読んだ夢野久作の「ドグㇻ・マグラ」の衝撃を書いているなかで、唐突に「文筆業者の卵となった時、「呉」という筆名を選んだ理由の半分は「ドグㇻ・マグラ」である」とあった。
呉先生の著作物は文庫の形で出版されたほぼ全部を読んでいるが、「呉智英」の「呉」がペンネームであり、出典は「ドグㇻ・マグラ」である、ということを初めて知った。そのことが書かれてあるのはこの一冊のこの一行だけではないのか。

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