今週はこんな本を読んだ №274 (25.8.4)
今週はこんな本を読んだ №274 (25.8.4)
「一神教vs多神教」 岸田秀・三浦雅士 朝日文庫 840円 2013年6月初版
背表紙の梗概に「一神教は己の価値観や正義を死守しようと異文化を攻撃する。現代に必要なのは、他者を認め共存する多神教的姿勢だ。・・唯幻論を基に社会や文化を考察する著者が、ユダヤ教キリスト教イスラム教の歴史に潜むトラウマを探り、今も紛争を生み続けるその理由を解き明かす」と書かれていたのを見て、この本を持ってレジに向かった。
№14(20.6.28)で、著者の岸田秀の「日本人と日本病について」という本を紹介したが、本当に大きな影響を受けた。何かあるといつもこの本を引っ張り出しては読んでいた記憶がある。
「唯幻論」とは何か、については巻末の「文庫版あとがき」のなかで、「私の説(唯幻論)は、人類は本能が壊れて現実を見失い、幻想の世界に迷い込んでこの地球上で変なことばかりしているヘンな欠陥動物であるという前提に立っている」と説明されているが、「幻」の意味するところはとうとう最後まで読んでも分からなかった。
「一神教と多神教」はものごとを分別するときの最初にある分岐だと、私は思っている。東京オリンピック招致活動のなかで、東京都知事の猪瀬直樹が「イスラムの人たちはいつもけんかばかりしている」という、とてももの書きとは思えないナイーブな発言が顰蹙を浴びたのは最近のことだ。「イスラムの人たち」ではなく、「一神教徒というのはいつも」という言い方なら、ちゃんと文明批判になっていたものを、と思ったものだ。
最近のエジプトの騒乱を見るにつけ、改めて「一神教」のことを考えさせられる。「アラブの春」「アラブの民主化」と絶賛称揚した朝日新聞も、この事態をどう判断すれ良いのか分からないからなのだろう沈黙したままだ。
宗教を知らない、宗教の知識の無い人間や新聞社が日本以外の外国の出来事を分析すると往々にしてこの種の勘違いを犯してしまう。
それにしても、一年しかもたない民主化、とはいったい何なのか、それはそもそも民主化といえるものではなかったのではないか、とつい考えてしまう。
「そもそも一神教というのは奴隷の宗教、迫害され差別された人びとの宗教だというのが僕の考え。一神教では、唯一絶対神への無条件の帰依、絶対服従が強調されるが、奴隷社会において、絶対権力を持つ支配者と、服従するだけの奴隷との関係と同じ。」というところから、「唯幻論」を展開して、「なぜ精神分析理論は集団を理解するために適用できるのか」ということの説明を試みている。
「多神教的なものは、共同体の血縁幻想に支えられ、母親的女性的なものに支えられている。それぞれの神々は違うのだから、多神教同士が団結することはあり得ない。自分の血縁幻想の範囲以上には自分の神々を広めようとはしない。一神教同士だと両方が普遍性を主張するわけだから、血みどろの戦争になる。ようするに近親憎悪、
それで文明の衝突になる。ユダヤ・キリスト・イスラムは親戚のようなもので、それに共産主義をいれたら全部になる。共産主義も一神教のひとつなのだ」。
「多神教は神と人間はどこかで血縁としてつながっていて、それを否定するのが一神教。血のつながりのないよそ者を神に持ってくるとか、いま居るところとは別の世界に本当の世界があると信じるとかは、現実がよほど耐えがたく、現状によほど不満がなければ思い付かない。一神教は現実否認、現実逃避なのだ」と語って、一神教を「奴隷の宗教・迫害された者の宗教・差別された者の宗教」と断じている。
「一神教」については、語ること、語るものが多いのに比べて「多神教」については語ること語るものが少ないことに気が付く。「ひとつしか無いもの」と「多くあるもの」の単純な差、だけのものとは思わない。「多神教」については、「一神教」との「比較」のなかでしか、語れないものだと私は思うのだ。
塩野七生さんは「ローマ人の物語」のなかで、ローマ人について、「寛容」という言葉を繰り返し何度も使ってその特性を語っている。多神教のローマ社会のなかに、排他的なユダヤ教、さらにキリスト教が入って来たとき、ローマ人はその「寛容」で、多くの宗教の中のひとつ、たくさんいる神のひとつ、として差別するのではなく、彼らにも神がいること、その神を信仰することを認め、共生することを一神教徒たちにも求めた。
「一神教」が多神教の社会で多くの神々のなかのひとりの神であるうちは、共生する社会が保たれるが、一人の神のみを尊崇する勢力が多数教の社会で多数になった時、一神教の神は「神はわれ一人」と言い出し、そこから「一人きりの神」になるため、他の神を殺す血みどろの争いが始まるのだ。
「我が神を信ずる者以外は敵だ、殺せ」、「邪教徒を改信させよ、と神が言っている」、「正義はわれにしか無い」という簡単なフレーズが世界を席巻することになる。
何にしろ、「一神教」というものは厄介、なのだ。
「一神教vs多神教」 岸田秀・三浦雅士 朝日文庫 840円 2013年6月初版
背表紙の梗概に「一神教は己の価値観や正義を死守しようと異文化を攻撃する。現代に必要なのは、他者を認め共存する多神教的姿勢だ。・・唯幻論を基に社会や文化を考察する著者が、ユダヤ教キリスト教イスラム教の歴史に潜むトラウマを探り、今も紛争を生み続けるその理由を解き明かす」と書かれていたのを見て、この本を持ってレジに向かった。
№14(20.6.28)で、著者の岸田秀の「日本人と日本病について」という本を紹介したが、本当に大きな影響を受けた。何かあるといつもこの本を引っ張り出しては読んでいた記憶がある。
「唯幻論」とは何か、については巻末の「文庫版あとがき」のなかで、「私の説(唯幻論)は、人類は本能が壊れて現実を見失い、幻想の世界に迷い込んでこの地球上で変なことばかりしているヘンな欠陥動物であるという前提に立っている」と説明されているが、「幻」の意味するところはとうとう最後まで読んでも分からなかった。
「一神教と多神教」はものごとを分別するときの最初にある分岐だと、私は思っている。東京オリンピック招致活動のなかで、東京都知事の猪瀬直樹が「イスラムの人たちはいつもけんかばかりしている」という、とてももの書きとは思えないナイーブな発言が顰蹙を浴びたのは最近のことだ。「イスラムの人たち」ではなく、「一神教徒というのはいつも」という言い方なら、ちゃんと文明批判になっていたものを、と思ったものだ。
最近のエジプトの騒乱を見るにつけ、改めて「一神教」のことを考えさせられる。「アラブの春」「アラブの民主化」と絶賛称揚した朝日新聞も、この事態をどう判断すれ良いのか分からないからなのだろう沈黙したままだ。
宗教を知らない、宗教の知識の無い人間や新聞社が日本以外の外国の出来事を分析すると往々にしてこの種の勘違いを犯してしまう。
それにしても、一年しかもたない民主化、とはいったい何なのか、それはそもそも民主化といえるものではなかったのではないか、とつい考えてしまう。
「そもそも一神教というのは奴隷の宗教、迫害され差別された人びとの宗教だというのが僕の考え。一神教では、唯一絶対神への無条件の帰依、絶対服従が強調されるが、奴隷社会において、絶対権力を持つ支配者と、服従するだけの奴隷との関係と同じ。」というところから、「唯幻論」を展開して、「なぜ精神分析理論は集団を理解するために適用できるのか」ということの説明を試みている。
「多神教的なものは、共同体の血縁幻想に支えられ、母親的女性的なものに支えられている。それぞれの神々は違うのだから、多神教同士が団結することはあり得ない。自分の血縁幻想の範囲以上には自分の神々を広めようとはしない。一神教同士だと両方が普遍性を主張するわけだから、血みどろの戦争になる。ようするに近親憎悪、
それで文明の衝突になる。ユダヤ・キリスト・イスラムは親戚のようなもので、それに共産主義をいれたら全部になる。共産主義も一神教のひとつなのだ」。
「多神教は神と人間はどこかで血縁としてつながっていて、それを否定するのが一神教。血のつながりのないよそ者を神に持ってくるとか、いま居るところとは別の世界に本当の世界があると信じるとかは、現実がよほど耐えがたく、現状によほど不満がなければ思い付かない。一神教は現実否認、現実逃避なのだ」と語って、一神教を「奴隷の宗教・迫害された者の宗教・差別された者の宗教」と断じている。
「一神教」については、語ること、語るものが多いのに比べて「多神教」については語ること語るものが少ないことに気が付く。「ひとつしか無いもの」と「多くあるもの」の単純な差、だけのものとは思わない。「多神教」については、「一神教」との「比較」のなかでしか、語れないものだと私は思うのだ。
塩野七生さんは「ローマ人の物語」のなかで、ローマ人について、「寛容」という言葉を繰り返し何度も使ってその特性を語っている。多神教のローマ社会のなかに、排他的なユダヤ教、さらにキリスト教が入って来たとき、ローマ人はその「寛容」で、多くの宗教の中のひとつ、たくさんいる神のひとつ、として差別するのではなく、彼らにも神がいること、その神を信仰することを認め、共生することを一神教徒たちにも求めた。
「一神教」が多神教の社会で多くの神々のなかのひとりの神であるうちは、共生する社会が保たれるが、一人の神のみを尊崇する勢力が多数教の社会で多数になった時、一神教の神は「神はわれ一人」と言い出し、そこから「一人きりの神」になるため、他の神を殺す血みどろの争いが始まるのだ。
「我が神を信ずる者以外は敵だ、殺せ」、「邪教徒を改信させよ、と神が言っている」、「正義はわれにしか無い」という簡単なフレーズが世界を席巻することになる。
何にしろ、「一神教」というものは厄介、なのだ。
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