今週はこんな本を読んだ №76 (21.9.13)
今週はこんな本を読んだ №76 〈21.9.13〉
「(ドキュメント闇の昭和史)秘録 帝銀事件」 森川哲郎 祥伝社文庫 819円 21年7月初版
著者の著作について№21「疑獄と謀殺」でも取り上げている。その本とまた同じような印象だった、というのが正直な感想になる。前作でも感じたことだが、文章としてこなれていないのだ。
私はこの手のジャンルが好きでよく読むのだが、この本は何かとても読みにくかった。昭和47年刊行当時に知見したことが本文の<今、現在>になるのだが、それは分かってはいるのだが、時点的に<更新>されているものもあるのではないか、そう思いながら読むものだから、ひっかかりひっかかり、行きつ戻りつしながら、それにいらつくものを感じながら読んだ。読書の姿勢としては決して良いものではない。
昭和47年版のものに、平沢元死刑囚と養子縁組をした著者の息子森川武彦が書いた新たな一章「秘録 帝銀事件後の新事実」を付け加え出版されたものだ。
「帝銀事件」に関しては「小説帝銀事件(松本清張著・新潮文庫)」、「ドキュメント帝銀事件(和多田進著・ちくま文庫)」という本を季節になると二冊を前後して何度か読んでいる。「季節」は事件があった冬ではなく、なぜか夏が多い。<謀略>というカテゴリーでみているということなのだろうが、どうしていつも夏になるのだろうか、などと考えてしまう。
著者は帝銀事件の平沢死刑囚の冤罪をはらすべく、「救う会」を結成し私財を投げ打ち、全生活を賭けて活動し、それが果たせないまま亡くなった後は実子が平沢死刑囚と養子縁組し、再審請求の手立てとして残す、という凄まじいまでの活動をした人である。一身を投げ打つ覚悟、生涯を賭ける気概がなくてはとても成せない仕事である。それも親子二代にわたって、である。
正義を行う人、正しいことを言う人は強い。その剛直毅然な態度には胸うたれるものがある。自分にはとうてい真似の出来ることではないので率直に尊敬する。ただ、それと著作の面白さとは別ものだ。
学術論文を読んでいるのでもなければ、私家本を読まされているわけでもない。
古くは「松川事件」の広津和郎、「狭山事件」の野間宏、最近では「秋好事件」の島田荘司など、冤罪を広く一般の人々に知らせ、警察検察の取り調べの不当、裁判の不当を訴えるという活動が細い一本の筋のように切れることなく繋がっている。「冤罪」があることを広く一般の人びとに知らせ、人びとからの支持支援が裁判の結果を動かす動機にもなる。私はそんな本を読むことで<支持支援>している、と思っている。
この手の本を読むときいつも感じるのは、どうしてこうも人は弱いのだろう、ということだ。警察、検察の取り調べで易々と自白し、裁判になってから自白を翻すことをする。もし、自分だったら、と考えると、やはり私も易々と検事の誘導に乗って迎合し、ありもしないことをペラペラと喋ってしまいそうだ。
検察に人は居ないのか、と考えると、昨年読んだ「国家の罠(佐藤優著・新潮文庫)」では、検察官自身が確信犯的な立場に立って、明らかに誘導を意図していたことを紹介してくれている。佐藤優だから、頭脳明晰で、自分の行動と立場を明確に把握し、しかもそれを論理建てて検察官に開陳できる、という心身ともに強健な人間だから出来たことで、とても私などに真似のできることではない。そうして考えてみると、「冤罪」に巻き込まれる危険は私にもある。そしてそこから決して抜け出せないだろうと思う自分もいる。それが殺人などという劇的なものではなく、例えば通勤電車の中での<痴漢行為>などもこの範囲に入る。
正しく生きる他は無いが、何をして正しいのか、というまた別な議論に発展していく。
私としては和多田の著作が強く記憶に残っている。もう何年も前に読んだものなので記憶が定かではないが、この中で「K」(著書のなかでは実際の名前が使用されているが、ここではあえてKとした)という人物が重要な役割を持って登場するが、この著作のなかではただ一回だけ、しかも項目としての名前でしか登場していない。
いわゆる<春画>のこと、いわゆる<愛人>のことも実に簡単にしか触れられていない。「秘録 帝銀事件後の新事実」と銘打つにしては、なんとしても踏み込みが足りないと思うのは私だけだろうか。
闇は、この辺りにあるように思うのだけど。
「(ドキュメント闇の昭和史)秘録 帝銀事件」 森川哲郎 祥伝社文庫 819円 21年7月初版
著者の著作について№21「疑獄と謀殺」でも取り上げている。その本とまた同じような印象だった、というのが正直な感想になる。前作でも感じたことだが、文章としてこなれていないのだ。
私はこの手のジャンルが好きでよく読むのだが、この本は何かとても読みにくかった。昭和47年刊行当時に知見したことが本文の<今、現在>になるのだが、それは分かってはいるのだが、時点的に<更新>されているものもあるのではないか、そう思いながら読むものだから、ひっかかりひっかかり、行きつ戻りつしながら、それにいらつくものを感じながら読んだ。読書の姿勢としては決して良いものではない。
昭和47年版のものに、平沢元死刑囚と養子縁組をした著者の息子森川武彦が書いた新たな一章「秘録 帝銀事件後の新事実」を付け加え出版されたものだ。
「帝銀事件」に関しては「小説帝銀事件(松本清張著・新潮文庫)」、「ドキュメント帝銀事件(和多田進著・ちくま文庫)」という本を季節になると二冊を前後して何度か読んでいる。「季節」は事件があった冬ではなく、なぜか夏が多い。<謀略>というカテゴリーでみているということなのだろうが、どうしていつも夏になるのだろうか、などと考えてしまう。
著者は帝銀事件の平沢死刑囚の冤罪をはらすべく、「救う会」を結成し私財を投げ打ち、全生活を賭けて活動し、それが果たせないまま亡くなった後は実子が平沢死刑囚と養子縁組し、再審請求の手立てとして残す、という凄まじいまでの活動をした人である。一身を投げ打つ覚悟、生涯を賭ける気概がなくてはとても成せない仕事である。それも親子二代にわたって、である。
正義を行う人、正しいことを言う人は強い。その剛直毅然な態度には胸うたれるものがある。自分にはとうてい真似の出来ることではないので率直に尊敬する。ただ、それと著作の面白さとは別ものだ。
学術論文を読んでいるのでもなければ、私家本を読まされているわけでもない。
古くは「松川事件」の広津和郎、「狭山事件」の野間宏、最近では「秋好事件」の島田荘司など、冤罪を広く一般の人々に知らせ、警察検察の取り調べの不当、裁判の不当を訴えるという活動が細い一本の筋のように切れることなく繋がっている。「冤罪」があることを広く一般の人びとに知らせ、人びとからの支持支援が裁判の結果を動かす動機にもなる。私はそんな本を読むことで<支持支援>している、と思っている。
この手の本を読むときいつも感じるのは、どうしてこうも人は弱いのだろう、ということだ。警察、検察の取り調べで易々と自白し、裁判になってから自白を翻すことをする。もし、自分だったら、と考えると、やはり私も易々と検事の誘導に乗って迎合し、ありもしないことをペラペラと喋ってしまいそうだ。
検察に人は居ないのか、と考えると、昨年読んだ「国家の罠(佐藤優著・新潮文庫)」では、検察官自身が確信犯的な立場に立って、明らかに誘導を意図していたことを紹介してくれている。佐藤優だから、頭脳明晰で、自分の行動と立場を明確に把握し、しかもそれを論理建てて検察官に開陳できる、という心身ともに強健な人間だから出来たことで、とても私などに真似のできることではない。そうして考えてみると、「冤罪」に巻き込まれる危険は私にもある。そしてそこから決して抜け出せないだろうと思う自分もいる。それが殺人などという劇的なものではなく、例えば通勤電車の中での<痴漢行為>などもこの範囲に入る。
正しく生きる他は無いが、何をして正しいのか、というまた別な議論に発展していく。
私としては和多田の著作が強く記憶に残っている。もう何年も前に読んだものなので記憶が定かではないが、この中で「K」(著書のなかでは実際の名前が使用されているが、ここではあえてKとした)という人物が重要な役割を持って登場するが、この著作のなかではただ一回だけ、しかも項目としての名前でしか登場していない。
いわゆる<春画>のこと、いわゆる<愛人>のことも実に簡単にしか触れられていない。「秘録 帝銀事件後の新事実」と銘打つにしては、なんとしても踏み込みが足りないと思うのは私だけだろうか。
闇は、この辺りにあるように思うのだけど。
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