今週はこんな本を読んだ №62 (21.5.31)
今週はこんな本を読んだ №62 (21.5.31)
「最後の一球」 島田荘司 講談社ノベルズ 777円 平成21年5月初版
宮部も東野も貫井もとうとう一度も読むことは無くこの歳まできてしまった。正直なところを言えばそこまで手が回らなかった。今、読まねばならない本がそこにあったからという理由が一番だが、実はそこに「嵌ってしまう」ことを恐れていたのかもしれない。私に残された時間がそれほど多い訳ではない、ということを言い訳にしている。
読むとなったらその著者の著作全部を読みたい、という欲望、読んでしまわねばという強迫観念のようなものを持っていると自覚しているので、限られた時間で冒険的なことをしたくない、さらにそこから発展していくことを恐れているのだ、と自分では分析している。俗な言い方をするなら、浮気を起こさなかった。起こすほどの気力も元気もなかった、とも言える。
ずいぶん昔に会社の友人が「島田荘司は凄いね」という話から、彼も熱心な読者と分かり、新刊が出版されるたびに購入した単行本を彼から借りて読んでいた時期があった。単行本はかさばるので購入しない、と言いつつ、実は島田の推理小説を単行本で購入するほどの経済的余裕がなかったというのが正直なところで、新刊を読み終わってすぐに貸してくれる友人はありがたかった。その頃から文庫化されたものは出版のたびに購入し、そのうち新刊のノベルスも購入できるほどの経済的な余裕もできてきた。
会社の友人とは勤務場所が変わったので今では会うことも話をする機会も無くしたが、今も島田を読み続けているか、と聞いてみたい気がするがまだ聞いていない。お前はまだそこに居るのか、と思われてもいやだし、必ず初版本を購入していた彼が、飽きた、もう読まない、という答えを聞きたくない、という気持ちも正直なところだ。
一人の女性を深く愛するのか、なるべく多くの女性と経験を持った方が良いのか、一人の親友と人生を共に歩くのが良いのか、なるべくたくさんの友人を持つべきなのか、それを考えることが人生そのもの、と思う。本を読むとは、その人の人生観以外の何物でもない。だから人生とは「自分が納得すること」と私は思っている。若いころなら「人生とは自分が納得すること」などということを聞くと、その言い方は逃げている、なんだ、その生ぬるさは、と舌うちをするところだが、攻守ところを代えた現在、「ま、そんなものだ」と得心している自分がいる。
島田の著作の中でいわゆる「体育会系」のキャラクターが主人公になった小説はこの作品が初めてではないだろうか。高校、社会人、プロと一歩ずつ階段を上るように成長していく一人の投手が主人公になっている。投手というもの、打者と対した時の投手の心理、野球というゲームの流れ、それぞれの描写がなんというか平面的で、「ありがち」という類型的、典型的な描き方になっているが、それが欠点ということではなく、「野球」というスポーツを通して島田の世界を構築したいのであって、決して「野球」そのものドラマを描こうとしたわけではない、と見たので私は特に気にはならなかった。
いつも、島田の本を読み終わった後に感じる事件の陰残さとか、主人公の身もだえするような運命とか、どうしても抜け出せない悲劇とか、さらに目を覆いたくなるような哀しさとか、そういうものは一切ない。島田の著作には珍しいほどのある種の開放感、落ち着くべきところに落ち着いて良かった的な安堵感があった。これはある種稀有な作品である、と書いて置きたい。
タイトルは安直に過ぎないか、と最後に付け加えたい。
事件の導入部でなんとなく「最後の一球はどの場面で投ずるのだろう」と見てしまった。そして「やっばし、ここしか無いよな」なんて納得し、まるで、「スーポーツグラフィック・ナンバー」のノンフィクションを読まされているような気持にさえなった。
蛍光ペンを持ってマーキングしたり、一行読んでまた前のページに戻って確認したり、ということが無いので小説はすらすらと読める。小説を読むことは私にとってある種の気分転換、になっている。
「最後の一球」 島田荘司 講談社ノベルズ 777円 平成21年5月初版
宮部も東野も貫井もとうとう一度も読むことは無くこの歳まできてしまった。正直なところを言えばそこまで手が回らなかった。今、読まねばならない本がそこにあったからという理由が一番だが、実はそこに「嵌ってしまう」ことを恐れていたのかもしれない。私に残された時間がそれほど多い訳ではない、ということを言い訳にしている。
読むとなったらその著者の著作全部を読みたい、という欲望、読んでしまわねばという強迫観念のようなものを持っていると自覚しているので、限られた時間で冒険的なことをしたくない、さらにそこから発展していくことを恐れているのだ、と自分では分析している。俗な言い方をするなら、浮気を起こさなかった。起こすほどの気力も元気もなかった、とも言える。
ずいぶん昔に会社の友人が「島田荘司は凄いね」という話から、彼も熱心な読者と分かり、新刊が出版されるたびに購入した単行本を彼から借りて読んでいた時期があった。単行本はかさばるので購入しない、と言いつつ、実は島田の推理小説を単行本で購入するほどの経済的余裕がなかったというのが正直なところで、新刊を読み終わってすぐに貸してくれる友人はありがたかった。その頃から文庫化されたものは出版のたびに購入し、そのうち新刊のノベルスも購入できるほどの経済的な余裕もできてきた。
会社の友人とは勤務場所が変わったので今では会うことも話をする機会も無くしたが、今も島田を読み続けているか、と聞いてみたい気がするがまだ聞いていない。お前はまだそこに居るのか、と思われてもいやだし、必ず初版本を購入していた彼が、飽きた、もう読まない、という答えを聞きたくない、という気持ちも正直なところだ。
一人の女性を深く愛するのか、なるべく多くの女性と経験を持った方が良いのか、一人の親友と人生を共に歩くのが良いのか、なるべくたくさんの友人を持つべきなのか、それを考えることが人生そのもの、と思う。本を読むとは、その人の人生観以外の何物でもない。だから人生とは「自分が納得すること」と私は思っている。若いころなら「人生とは自分が納得すること」などということを聞くと、その言い方は逃げている、なんだ、その生ぬるさは、と舌うちをするところだが、攻守ところを代えた現在、「ま、そんなものだ」と得心している自分がいる。
島田の著作の中でいわゆる「体育会系」のキャラクターが主人公になった小説はこの作品が初めてではないだろうか。高校、社会人、プロと一歩ずつ階段を上るように成長していく一人の投手が主人公になっている。投手というもの、打者と対した時の投手の心理、野球というゲームの流れ、それぞれの描写がなんというか平面的で、「ありがち」という類型的、典型的な描き方になっているが、それが欠点ということではなく、「野球」というスポーツを通して島田の世界を構築したいのであって、決して「野球」そのものドラマを描こうとしたわけではない、と見たので私は特に気にはならなかった。
いつも、島田の本を読み終わった後に感じる事件の陰残さとか、主人公の身もだえするような運命とか、どうしても抜け出せない悲劇とか、さらに目を覆いたくなるような哀しさとか、そういうものは一切ない。島田の著作には珍しいほどのある種の開放感、落ち着くべきところに落ち着いて良かった的な安堵感があった。これはある種稀有な作品である、と書いて置きたい。
タイトルは安直に過ぎないか、と最後に付け加えたい。
事件の導入部でなんとなく「最後の一球はどの場面で投ずるのだろう」と見てしまった。そして「やっばし、ここしか無いよな」なんて納得し、まるで、「スーポーツグラフィック・ナンバー」のノンフィクションを読まされているような気持にさえなった。
蛍光ペンを持ってマーキングしたり、一行読んでまた前のページに戻って確認したり、ということが無いので小説はすらすらと読める。小説を読むことは私にとってある種の気分転換、になっている。
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