今週はこんな本を読んだ №469 (29.5.28)  「逆説の日本史 20」

今週はこんな本を読んだ №469 (29.5.28)

「逆説の日本史 20」 井沢元彦 小学館文庫 17年4月初版 788円  

この第20巻は1862年から1864年までの、元号でいえば文久二年から文久四年・元治元年の三年間の出来事が時系列的に書かれている。この三年間には「幕府を窮地に陥れた生麦事件と島津久光」、「攘夷派不可能を悟らせた薩英戦争と下関戦争」、「沖縄沖永良部流罪の西郷赦免で歴史は動いた」の三つの章が建てられている。

この巻の主役は薩摩藩の「国父」と呼ばれている島津久光だ。
島津斉彬は正室の嫡男として生まれたが久光は側室の生まれで、斉彬の死後結局藩主にはなれず息子の茂久が藩主になる。若き藩主の父として実権を握り国父と呼ばれたが公式には無位無官、表舞台で活躍するためのなにひとつの資格も持ってはいなかった。
久光は幕府を倒そうとは考えず、朝廷をバックに幕府を改革しようという構想を持っていたが、このことは「幕末史」のなかで久光の動きを見るうえで重要な見方になる。自ら「幕政改革」の乗り出そうとした時、自分は中央政界に対して無位無官で、藩主でもなく、無名に近い存在であると気がつき、藩内で人望が高く朝廷に名が知れ、さらに将軍御台所の篤姫の「存知よりの者」でもある西郷隆盛の再起用を決断した。
文久二年二月、西郷隆盛が配流先の奄美大島から鹿児島に戻るが、結局八月には沖永良部に、今度は主命に違反したという罪で島流しにされることになる。

久光は公武合体による幕政改革こそ正しい道だと信じて疑わなかったが、薩摩藩士が望んでいたのは倒幕であり久光の方針には反対だった。この軋轢が薩摩の藩士同士が討ちあうという維新最大の惨劇である寺田屋事件に発展する。結果から見れば久光が命令した寺田屋事件は歴史の流れを妨害し明治維新の到来を著しく遅らせたことになる。
明治期にさまざまな人たちによって書かれた「明治維新」史は、「同時代の当事者の言っていることだから正しい、という史料絶対主義を馬鹿正直に振りかざせば歴史の解釈は真相から大きくかけ離れたものになってしまう」と著者は警告している。
久光は明治維新政府で左大臣、華族の最高位の公爵になり、さらにその子孫が皇室に嫁いでいる。明治政府の高官たちも、帝国大学の歴史学者も「維新の功労者」である島津久光が、実は明治維新の流れを阻害した「元凶」であるとは言えなくなってしまい、それが今日の評価として定着した。
久光がもう少し本当の「暗愚」であったら、西郷は歴史にあるとは少し違う「絵」を描けただろうし、寺田屋事件はなかったろうし、一橋慶喜との対立もなかったとしたら、明治維新はもっと別な形になっていたことには間違いのないことだ。

三位大原重徳が天皇の勅使として江戸に下向して幕府に幕政改革を迫り、将軍家茂は一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁職にすること、さらに将軍が天皇に謁見するため上京することを誓わされた、これを文久の改革というが、本当の意義は、幕府はもはや頼りにならないことを天下に示したことに尽きる。「勅使警護役」として無位無官の大名でもない者が大軍を率いて江戸に向かった。これは幕府始まって以来の前代未聞の事態であり、「入り鉄砲、出おんな」を厳しく取り締まった箱根の関所が久光によって公然と破られた。外様大名のたった七百人の武力に、武士の棟梁たる徳川将軍家がいいようにあしらわれた、幕府はもはや頼りにならないと天下に示したことになった。
この江戸からの帰途、久光一行に遭遇した英国人が騎乗のまま行列を横切ろうとした無礼を咎められ斬り殺されるという事件が発生した。文久二年八月の生麦事件である。この事件は薩摩の国父と言われる人物が直接攘夷を断行したものと英雄視されることになる。
英国は生麦事件の賠償金十万ポンドの支払いを幕府に求め、さらに薩摩藩に生麦事件の犯人引き渡しを求めて、錦江湾から薩摩城下に向けて艦砲射撃が開始され薩英戦争が始まる。
この戦争は結果として薩摩藩に攘夷実行不可能を悟らせることになる。

文久の改革を実効性のあるものにすべく、久光の働きかけで越前の松平春嶽、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂、将軍後見職一橋慶喜らが上洛し、「参与の制度」が動き出そうとする。一橋慶喜は久光が天皇の支持のもとに自ら将軍になるつもりではないかと邪推する。幕府には今まで薩摩に思いのままにされたといううらみがあった。薩摩の勢力がこれ以上拡大するのだけは阻止しなければなないと思い始め、参与会議を壊し久光追い落としを決意する。久光が主導する参与会議が崩壊し、代わって一橋・会津・桑名の一会桑政権ができる。
孝明天皇は極端な夷狄嫌いで攘夷は完全に行えという姿勢をとったが、幕府を滅ぼそうなどとは夢にも思ってはいなかった。実際の政治は将軍が行うべきという伝統的考えの持ち主だった。天皇の思いを共通認識として慶喜と久光は連携すべきだった。久光はそのつもりだったが幕府の側、一橋慶喜はそれを久光の野心とみた。この時点まで、久光は幕府を滅ぼそうなどとは夢にも思ってはいなかった。天皇の意を忖度した「公武合体」が久光の「思想」だったのだ。
久光は自分が支持しようと思っていた慶喜に裏切られた思いがして、これでは幕府は支持できぬということを思い知らされた。薩摩の国父島津久光が従来の考えを変え、「倒幕」に傾きかけたのはまさにこの時点だった。

元治元年七月、前年文久三年の「八月十八日の政変」で京を追われた長州藩が、御所を目指して発動して桑名の藩兵と戦闘状態に入る。御所の門(禁門)で戦闘があったから「禁門の変」、また、そのうち蛤御門の戦闘がもっとも激しかったから「蛤御門の変」とも呼ばれているが、実態は「長州の変」であった。
御所を警護し朝廷を護る会津藩桑名藩や薩摩藩、一橋慶喜は忠臣である官軍であり、御所を攻撃対象とする長州藩は賊軍以外の何物でもないが、明治維新の最終的勝者となった長州藩による明治の教育によって「長州の変」ではなく「禁門の変」という呼称が定着した。
小さなことだが、呼称ひとつで歴史の見え方がまるで違ってくることのひとつでもある。

再来年のNHKの大河ドラマは「西郷隆盛」が主人公のドラマになるという。
西郷がどんな人物として描かれるかより、島津久光がどんな役回りとして描かれるかに興味が向いてしまう。

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