今週はこんな本を読んだ №226 (24.9.2)
今週はこんな本を読んだ №226 (24.9.2)
シリーズ日本の近代 「逆説の軍隊」 戸部良一 中公文庫 1400円 12年7月初版
98年刊行の<日本の近代9「逆説の軍隊」>を文庫化したものだ。
編集委員は伊藤隆、猪木武徳、北岡伸一、御厨貴とあって、戸部良一は№221で紹介した「失敗の本質(中公文庫)」の編者の一人である。
腰巻には「時代をけん引した巨大組織が犯した<失敗の本質>を問う」とあり、「シリーズ日本の近代 刊行開始」、「中公文庫40周年記念企画」と書かれてある。
夏休み、クーラーの良く効いた部屋で、蛍光ペンと温かいコーヒーがたっぷりと入ったマグカップを側に置いて、遠くに蝉の声を聞きながら読んだ。まったく「黄金の時間」を過ごすことができた。
目次は「プロローグ・解体」「誕生」「成長」「爛熟」「変容」「エピローグ・自壊」となっている。「プロローグ・解体」は終戦時の近衛師団長殺害、「エピローグ・自壊」は市ヶ谷台上にたちあがる煙に焦点が当たっている。
「そもそも軍隊とは戦争と言う人間の行為のなかで最も非合理な行為を実践する、最も合理的な組織であるといわれている。日本軍はさまざまの逆説を内包した組織であった。その近代化と成長の過程で変容をきたした。
本巻は、明治期の創設時から軍隊の成長と近代化の過程を追跡し、それがなぜ変容をきたしたのかの原因を探り」、「様々な逆説を内包する日本軍の謎を<近代化>と<成長>をキーワードに解明する」とプロローグにある。
「逆説」という言葉に違和感を覚えた。著者は<プロローグ>のなかで、「統帥権独立は軍の政治関与を防止するためにつくられながら、やがてその政治関与・政治介入を支える制度へと変貌し、最後にはその軍の解体・終焉を助ける役割を果たしたことになる。何と皮肉で逆説的であることか」と書き、さらに「封建的領主から中央集権国家の中心たる国王への忠誠の転換はきわめて近代的な現象だったのである。その近代的な国王への忠誠が決起将校に見られるような必ずしも近代性とはなじまない信仰的天皇崇拝といつしか並存し同居さえしていた。これもやはり逆説的と言うほかない」と「逆説」というものを説明しているが、私は用語そのもの、その使い方に違和感をずっと持ったまま読み終わった。
最後の一頁の「市ヶ谷台上の煙」という一章に、「8月15日午前9時過ぎ市ヶ谷台から煙が上がり始めた」とある。陸軍省と参謀本部の中庭で山積みにした書類を焼却する煙である。「市ヶ谷台から上がった煙は、70年あまりの陸軍の過去を葬り、清算するかのようであった」という一行でこの本は終わっている。
かえすがえすも残念なことである。
将来に歴史の証拠として残さねばならぬものとは考えなかった彼らの思い、連合軍に裁かれるかもしれない証拠となる書類を焼却せねばならぬものと考えた彼らの思い、結局彼らは時代の証言者にはなり得なかった、ということにならないか。あまりにも無責任に過ぎる行為である。官僚が自ら作成した書類を自らの手で償却する、という行為は「国家に対する反逆行為」そのものである。
結局のところ<負け方>を知らなかった、という一語に尽きるのではないか。負け方を知らない、ということは「勝ち方」を知らない、ということにも繋がる。
日露戦争では後世に語り継がれるような<勝ち方>をした組織が、それからわずか30年後にまったくその経験と知識が生かされていない、ということに驚かなければならない。
一言でいえば「組織としての体をなしていない」、ということに尽きる。
軍隊というきわめてリアルであるべき組織が、それと対極をなすような<情>であったり、「人間関係」によって組織としての意思決定がなされる、あるいは意思決定そのものが左右されるのであれば、そもそも外に打って出るような組織ではない、という結論になる。
民主主義を守るために軍事がある、より生々しい言い方をするなら平和を守るために軍隊がある、平和を維持するために戦争をするようなこともあるというような議論を日本人は一度もしたことがない。
民主主義はロクなものじゃないけれど、まだ少しだけましな制度だよね、という歴史的な経験則がない。
現在の日本人が認識理解している「民主主義」というのは原爆と同時に空からおりてきたものだ、という原点がどこかに忘れ去られている。民主主義と原爆は紙の表側と裏側なのだ。
行きつ戻りつ、結局ここに帰着してしまう。
竹橋事件から終戦時の近衛師団長殺害事件まで、日本陸軍の成立から破滅までを概観できる貴重な一冊である。保坂正康さんの「昭和の陸軍(朝日文庫)」と合わせて読めばほぼ完璧な知識になる。
そういえば「昭和の陸軍」を読んだのはいつのことか、と読書録で確認すると平成18年に購入して一度読んだきりになっている。読み直さねば、と改めて思ったものだ。
実に貴重な一冊を読んだ。
シリーズ日本の近代 「逆説の軍隊」 戸部良一 中公文庫 1400円 12年7月初版
98年刊行の<日本の近代9「逆説の軍隊」>を文庫化したものだ。
編集委員は伊藤隆、猪木武徳、北岡伸一、御厨貴とあって、戸部良一は№221で紹介した「失敗の本質(中公文庫)」の編者の一人である。
腰巻には「時代をけん引した巨大組織が犯した<失敗の本質>を問う」とあり、「シリーズ日本の近代 刊行開始」、「中公文庫40周年記念企画」と書かれてある。
夏休み、クーラーの良く効いた部屋で、蛍光ペンと温かいコーヒーがたっぷりと入ったマグカップを側に置いて、遠くに蝉の声を聞きながら読んだ。まったく「黄金の時間」を過ごすことができた。
目次は「プロローグ・解体」「誕生」「成長」「爛熟」「変容」「エピローグ・自壊」となっている。「プロローグ・解体」は終戦時の近衛師団長殺害、「エピローグ・自壊」は市ヶ谷台上にたちあがる煙に焦点が当たっている。
「そもそも軍隊とは戦争と言う人間の行為のなかで最も非合理な行為を実践する、最も合理的な組織であるといわれている。日本軍はさまざまの逆説を内包した組織であった。その近代化と成長の過程で変容をきたした。
本巻は、明治期の創設時から軍隊の成長と近代化の過程を追跡し、それがなぜ変容をきたしたのかの原因を探り」、「様々な逆説を内包する日本軍の謎を<近代化>と<成長>をキーワードに解明する」とプロローグにある。
「逆説」という言葉に違和感を覚えた。著者は<プロローグ>のなかで、「統帥権独立は軍の政治関与を防止するためにつくられながら、やがてその政治関与・政治介入を支える制度へと変貌し、最後にはその軍の解体・終焉を助ける役割を果たしたことになる。何と皮肉で逆説的であることか」と書き、さらに「封建的領主から中央集権国家の中心たる国王への忠誠の転換はきわめて近代的な現象だったのである。その近代的な国王への忠誠が決起将校に見られるような必ずしも近代性とはなじまない信仰的天皇崇拝といつしか並存し同居さえしていた。これもやはり逆説的と言うほかない」と「逆説」というものを説明しているが、私は用語そのもの、その使い方に違和感をずっと持ったまま読み終わった。
最後の一頁の「市ヶ谷台上の煙」という一章に、「8月15日午前9時過ぎ市ヶ谷台から煙が上がり始めた」とある。陸軍省と参謀本部の中庭で山積みにした書類を焼却する煙である。「市ヶ谷台から上がった煙は、70年あまりの陸軍の過去を葬り、清算するかのようであった」という一行でこの本は終わっている。
かえすがえすも残念なことである。
将来に歴史の証拠として残さねばならぬものとは考えなかった彼らの思い、連合軍に裁かれるかもしれない証拠となる書類を焼却せねばならぬものと考えた彼らの思い、結局彼らは時代の証言者にはなり得なかった、ということにならないか。あまりにも無責任に過ぎる行為である。官僚が自ら作成した書類を自らの手で償却する、という行為は「国家に対する反逆行為」そのものである。
結局のところ<負け方>を知らなかった、という一語に尽きるのではないか。負け方を知らない、ということは「勝ち方」を知らない、ということにも繋がる。
日露戦争では後世に語り継がれるような<勝ち方>をした組織が、それからわずか30年後にまったくその経験と知識が生かされていない、ということに驚かなければならない。
一言でいえば「組織としての体をなしていない」、ということに尽きる。
軍隊というきわめてリアルであるべき組織が、それと対極をなすような<情>であったり、「人間関係」によって組織としての意思決定がなされる、あるいは意思決定そのものが左右されるのであれば、そもそも外に打って出るような組織ではない、という結論になる。
民主主義を守るために軍事がある、より生々しい言い方をするなら平和を守るために軍隊がある、平和を維持するために戦争をするようなこともあるというような議論を日本人は一度もしたことがない。
民主主義はロクなものじゃないけれど、まだ少しだけましな制度だよね、という歴史的な経験則がない。
現在の日本人が認識理解している「民主主義」というのは原爆と同時に空からおりてきたものだ、という原点がどこかに忘れ去られている。民主主義と原爆は紙の表側と裏側なのだ。
行きつ戻りつ、結局ここに帰着してしまう。
竹橋事件から終戦時の近衛師団長殺害事件まで、日本陸軍の成立から破滅までを概観できる貴重な一冊である。保坂正康さんの「昭和の陸軍(朝日文庫)」と合わせて読めばほぼ完璧な知識になる。
そういえば「昭和の陸軍」を読んだのはいつのことか、と読書録で確認すると平成18年に購入して一度読んだきりになっている。読み直さねば、と改めて思ったものだ。
実に貴重な一冊を読んだ。
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