今週はこんな本を読んだ №60 (21.5.17)

今週はこんな本を読んだ №60 (21.5.17)

「地球はグラスのふちを回る」  開高 健 新潮文庫 昭和56年11月初版 280円 

あちらこちらに発表されたエッセーや随筆を一冊にまとめた本で、開高の刊行物に多くあるパターンだ。
あっ、これはあそこで読んだ、これはあの本にもあった、という作品が多い。だからといってこの一冊がそれを理由に値段が下がるわけではない。また同じ作品を読まされようとも、そのたびに何か別の発見があるようで、ついまた買ったものだ。開高のファンというのはそういうものなのだろう。
こうして古い本を何年もたってから読み直すというのも何か感慨深いものがあるのだ。

「ちょっと一服」と題した一編は「煙草」についてのあれこれだが、この中で昔のスクリーンスター達の酒と煙草の演技について書いてある。リー・マーヴィンが尻のポケットから取り出したウイスキーの小瓶を一口ぐびりと飲む演技、ジャン・ギャバンがたるんだ頬を一杯に動かして物を食べる演技、ハンフリー・ボガードが煙草を口に咥える演技、そしてジェームス・ディーンがだらしなく煙草を咥える演技、特にハンフリー・ボガードの煙草の吸い方を絶賛している。
「ジャイアンツ」は私の好きな映画のひとつで、川崎の映画館で二度も観た。青年ジェームス・ディーンが演じるジェット・リンク、農場の女主人の遺産として貰ったほんのわずかな土地、自分のものとなった土地に立ち、肩に乗せたスコップを両方の手で押さえるように持ち、自分のものとなった土地を一歩二歩三歩と計測するかのように何度も歩くのだ。ブルージーンズと真っ白なシャツ、赤褐色の大地(やがてこの大地から石油が出るのだが)、真っ青な空、横咥えではなく唇の真ん中に、真っ直ぐではなくだらしなく下向きに咥えた煙草、今でもそのシーンが鮮烈に蘇ってくる。私の大好きなシーンだ。

開高の御説はこの4人の演技、仕草しか語っていないが、私にとってひとつ前の時代の映画のことでなんとももう一歩踏み込めない。同時代を生きたものとして私としてもう一人付け加えたいスクリーンスターがいる。ジャン・ポール・ベルモンドだ。彼の煙草の咥え方だ。最初に観たのは「勝手にしやがれ」だったと思う。それからずいぶんと彼の主演作は観た。「カトマンズの男」、「ダンケルク」、「パリは燃えているか」にも出ていた。やはり忘れられないのは「気狂いピエロ」だろう。「勝手にしやがれ」の中でも「気狂いピエロ」の中でも、ぶ格好なほどに長い顔、長い顎、存在感を主張してやまない大きな鼻、大きく厚い唇に不釣り合いなほどに小さな煙草を横咥えして、忙しげに吸い煙を吐き出していた。

今にして思えば当時の煙草はその全部の銘柄がいわゆる両切りの煙草で、現在のようにフィルターが着いていない。だから歯で噛む、ということが出来ない。それにフィルターが着いていない分現在の煙草と比べて短くて軽い。「くちびるのまんなかにだらしなくひっかける」ように見えるのが、それが自然なのだと思う。
「煙草」も「酒」もライトになった。極限的な嗜好品が「ライト・軽め」になった。それが百年前とか50年前との比較ではなく、この20年ほどの間に、だ。「煙草」も「酒」もライトがもてはやされるその同じような軌跡を描きながら「思想」も軽くなっていったような気がする。

この随筆のなかでチェーンスモークのことを書いている。
自分が直接に会ったサルトルと毛沢東が、せわしなく次から次へと新しい煙草に火をつける様子を見て、「チェーンスモークは焦燥の表徴だと心理学者はいう。とすると、この人達の心が渇いていて、一瞬の安住も拒んでいるということなのか」と書いている。現在、チェーンスモークをするような人は絶無といって良いほど見かけなくなった。第一煙草をする場所すら数々の制限制約を受けている。現代の人々から「焦燥」という字句が消えて無くなってしまった、ということではないだろうに、「焦燥」はどこに焦げ痕を作っているのだろうか。

いろいろな本で読むことができるが「旅は男の船であり、港である」は随筆として第一級の作品だ。今また読み返してもそう思う。「少年の心で、大人の財布で歩きなさい」と書いてある。財布は大きくはなったが、少年の心なぞ、とうの昔に失くしてしまった。

「漂えど、沈まず」と結語してある。

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